昭和四十三年十二月二十六日 朝の御理解
御理解第八十節 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生れてきたのではない。みな、神のおかげで生れてきたので、早く生れて者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」
この御理解は、いつもよく頂くところですけれども。今日は、この御理解のどこに焦点を置いて頂かせて頂こうかとお伺いさせて頂いたら、「信心は家内に不和のなきが元なり」と言う、ここのところを頂くのです。これは信心はなかっても、家庭に不和がないと言うのは有難いですけれども。取り分け信心させて頂く者の家庭に於ては、おかげの受け場であるところの家庭と言うものが、波風が立ち、不和であると言う事では、おかげは受けられんです。ですから、「信心は家内に不和のなきが元なり」、元とおっしゃるのですから、その元をです。
この第八十節の中から頂きたいと思います。努めて、年寄りを大事にする。それは粗末にするより、いいですねえ。けれども努めてからしておる。又は条件をもって年寄りを大事にする。例えば年寄りが隠居田地を持っておると大事にする。またどうせ、自分達も年寄らなければならんのだから、また自分達が年取ってからも大事にしてもらわなならんから、年寄りを大事にする。これは努めてから、大事にするのですよね。
ですから粗末にするより良いけれども。「信心させて頂く者はよう心掛けておくがよい」とおっしゃる。よう心掛けておらねばならない事はね。「年寄りを敬うのぞ」とおっしゃる。その敬うと言う事。年寄りを尊敬する。尊いもののようにして扱う。所謂、年寄りに不都合、不行き届きの事があってはならない。こうやって頂いてまいりますと、果して、私共が年寄りを敬うておるであろうか。年寄りに対して、不都合、不行き届きの事があってはいないだろうか。これは努めておると言う事からだけでは、なかなか良いものが生れてこない。
結局大切にしなければおられない内容を、私共が頂かなければならない、と言う事になる。年寄りを大切に敬わなければおられない心。理屈で年寄りを大事にするのじゃない。世の中には、親でも年寄りを、まかのうてやっておると言う感じがする。そういう所が多い。まかなわせて頂くと言う。そういうものでもない。敬うのぞとおっしゃる。当り前の事として、敬うていかなければならない。当り前の事として、それが不都合、不行き届きがあってはならない。私は、そういう事に心掛け、そういう事を内容に持っておる家庭は、家庭に不和のなきが元とおっしゃるが、年寄りを大事にする所なら、必ず家庭が円満だと思いますね。
夫婦の仲は良いが、年寄りとの間が具合良ういかん。そういう事があってよかろうはずがない。年寄りを心から敬う。心から大事にする。そういう家庭には波風は立たん。不和な事は起ってこない。あっちは信心の家庭だから違うと言うのはね、そういう家庭が円満であると言った事がです。それは、その時その時の都合で貧乏しておる時もありゃあ、いろんな不自由しとる時があるけれども。家庭が実に円満である。年寄りがおるなら年寄り中心に。そういう家庭には、食べものひとつ作らして頂くでもです。そこの嫁さんは、年寄りを中心に、必ず献立を考える。
おじいちゃんが好きだから、おばあちゃんが歯が悪いから、やわらかいものを、と言う事になる。そこのところを、昨日は幹部研修会でしたから、文男先生が話しております中に、今日は、実はもう二十五日と言う、いよいよ年末に迫ってまいりましたから、実を言うたら、忙しゅうて出てこれる段じゃないと言うのである。けれども本当に、これは努めて出て来ておると言う。私は、それを聞きながら思うたんです。例えば教会のそうした会合なんかにも努めて出て来る。
成程努めると言う事は有難い事ですけれども。それはどこまでも、お務めである。そして私の信者時代の事を、思うてみた。私は、他所にお話に行くでも、共励会に行かせて頂くでも、お導きに行くでも、どこ行くでも、務めよったっちゃろうかと、自分で思うてみた。私のは、務めよったっぢゃなかとです。もう、そうしなければおられなかったのです。そこにはね、私の信心と開きがあるねと言うて、話した事でございました。
例えば幹部だから、共励部員だからと言うて、よう務めなさる。だから神様も確かに、その氏子の上に、努めておかげを下さるですね、と私は思う。神様と私共は合わせ鏡と同じと言われておりますから、努めてからなら、神様も努めて下さる。やむにやまれん、どうでもそうして務めなければおられないと言う内容。そこからです。神様は、もう努めて下さるおかげじゃあない。もうやむにやまれんと言う思いで、いらんと言うても、どうでも頂いてくれと言う思いで、おかげ下さるような感じである。
そこに違いが出てくる、ような感じである。そこに違いが出てくる。そこでそんなら、昨日文男さんに、さあ今日からは、努めて出て来ないかんばい。どうでもやむにやまれんと言う思いで出て来にゃいかんばい、と言うたところで、出来るもんじゃないと言う事。やはり信心が好きにならなければならない。ここんところを皆さん本当に一遍検討してみなければいけません。あっちはよう務められるではなくてです。そこんところから、もういっちょ飛躍して、そうさして頂かなければおられない。
そうしなければおられない。やむにやまれぬもの。それが努めておると形に於ては同じだけれども。所謂お務めとは、違うと言う事になる。そんなら今日の、ここの年寄りを大事にせよと言うところでも、努めて大事にすると言うのでなくて、もう大事にしなければおられないのである。それは場合に於てはね、形の上ではそうしよらんです。けれども内容が年寄りを尊んでおる。やむにやまれんものであるから、撫で擦りこそしてないけれども。そういう心が神様の心に適う。
信心する者はよう心掛けておるがよい、又は信心の心得の中に、家庭に不和のなきが元とこうおっしゃる。その家庭の中に波風のない有難い雰囲気を作っていこうとする為には、年長者を大事にする。まあ例えば、そこにおいしいものがあるとするなら、子供達にゃ、やらんでんええから、おじいちゃんとおばあちゃんにあげてこい、と言ったような行き方。しかもそこにはね、不都合、不行き届きがあってはならない。同時に、それは敬うと言うもんでなからなければならない。
でなからなければならんのに、みてやっておる、まかのうてやっておる、と言うような、そういう心の状態では、それは努めておっても、私は本当じゃないと思う。そこで思うのですけれどもね。これは、私が頂いておる御教の中にも、年寄り子供を大事にするような人が、神様に愛されると言ったような意味の事を頂いた事があるけれども。いわゆる神様から大切にされる。これは、どういうもんでしょうかねえ。性分でしょうか。
私は、年寄りの方が見えますと知らない人でもね。何かそのしわだらけになっておる手を握ってから、こうこうしてさすってやりたいごとある。そういう感じに、私はなるのです。この手が、このしわだらけの手が何十年間世のお役に立ってきておる。働いてきておられる。何十年間の苦労がこのしわになっておると言う。そういうも〔の〕らしいのです。それをよく検討してみると、とても、あだやおろ〔そ〕かで、このしわは出来ておらんと言うのである。それで言うならばです。
その手を握ってから、さすりたい感じと言うのは、御苦労さんでした御苦労さんでしたと言うものなんです。私は、いつも、それを、衝動的に感ずるです。だからそういう内容がですね。やっぱり生れつきと言うか、性格的なそれにも似たようなものがあるのかもしれんが、結局思わせて頂くのにです。やはり、何時の間にか、教えが染み込んでおると言うか。例えて言うならば、神様を拝むようにです。年寄りを拝むと言うか、敬う。そういうようなものが段々、染み込んでおる。
そしていろいろ考えてみてです。成程信心の家庭に育てさせて頂いて、私共の家には、普通で言うなら、かかり遊徒、と言われるような、昔から次々と、かかりに来る者があるのですよ。年寄り、若い者を問わずです。その中でも、私が子供の時には、八十からのおばあちゃんが二人おられた。その母がですね。年寄りちゃあげん大事にせないかんじゃろうかと言う位に、大事にしてきておるのを、私は見てきておるです。もう、それは大変な忙しいお商売さして頂いとりましたけれども。
その母が、もう務めちからてんなんてんもんじゃなかったです、感じが。そういう感じの中にです。育てられてきておりますから、私はやっぱり年寄りを大事にする事が、染み込んでおるのじゃなかろうか。成程、世間で言うように、どうせ自分も年取らないけんのであるから。年を取ってから大事にしてもらわんならんから、年寄りを大事にしなければならんと言うような事ではないのだ。けれども、結局そういう結果になっておる。
私にも八十からなる両親がおりますけれども。私が別に、さあ肩を揉んでやりましょう、足をさすってやりましょう、家内だからと言うて、さあ床をとってあげましょう。さあ按摩をしてやりましょうと、言う訳ではないのです。私の方には、‥‥。さあ、おばあちゃんにあれを持っていってやらにゃならん。こればしてやらにゃならんと言う事はないのだけれども。もう私がいつ年寄りの部屋に行っても思う事はね。ようもこんな、いろんなものが、この部屋には揃うとると言う位に、揃うとるです。
飲み物から食物から、誰かが、言わば差し入れをして下さる訳です。ここにはお供えせんでも、おじいちゃんへ、おばあちゃんへと言うて、その持って行って下さるらしいのです。これは教会だから、どこでもそうだと言う事ではないて。私の知っておる範囲内では、本当に大事にされてない教会のおばあちゃんを、私は知っておるです。ですから、結局は私が、心の中に咲いておる、大事にせねばならんとか、敬わなければいかんとか、尊ばなければいけないと言ったようなものが、なんとはなしに子供の時から、染み込んできておるものがです。その心が神の気感に適う。
その神様の心に適うておるから、天地が年寄りを大事にして下さる。神様が年寄りを大事にして下さる。それは物とか食べ物の事だけじゃない。着る物の事だけじゃあない。いわゆる健康なら健康と言う上にでも、神様が御守護下さってある。私の方は、そういう風で昔から、年寄り中心主義でしたが、おかげでですね。私の方には、貧乏の一番さなかな時分であってもです。もう本当に、家庭の中には、波風が立ちませんでした。
私共の方には、どんなに物が逼迫した時でも、おかげでですね。家の中が笑いの中で過ごさせて頂きました。ですから、年寄りを大事にせんならん、務めにゃならん、と言ったようなもの、から、まず務めにゃいけません。だから努めるだけではいけません。それが尊敬され敬われるような内容を追求していかにゃいけません。そしてそれを、年寄りちゃこげんせんならんもんぞと言うのではなくて、それを若い者にも、やはり見せとかにゃ出来ません。そして染み込ませとかにゃいけません。これは私の体験から、それを感じるのです。
今日は、この御理解八十節から、どこをどう頂こうかと思わせて頂きましたら、信心の心得、「信心は家庭に不和のなきが元なり」とおっしゃるが、その元と言うのは、どういう事かと言うと、その家長とでも申しましょうか。年長者が年寄りが大事にされておる家庭であるならば、必ず私は、円満だと思うのです。ですから信心させて頂く者の家庭は、不和であっちゃならない。円満でなからねばならない。それがおかげの受け物であり、家庭がおかげの受け場であるとするならば、どうでも、家庭に不和のないと言う事に焦点をおかなければならない。
そこでその家庭に不和のないと言う努力精進の第一にです。年寄りを大事にしていこうとする心掛けがです。家庭全体にみなぎってこなければならない。そういう私は、各自おかげを頂いて頂きたい。今日は御理解八十節の中から、そのように家庭に不和のなきが元とおっしゃる、元を大事にするような精神。それを、務めて頂きたい。そしてその上に、努めるだけではない。そうしなければおられないものに、高めていって頂きたい。それがその家庭の風と言うか、家庭のそれが当然の事としてですね。
若い者が年寄りをみてやっておるとか、年寄りをまかなっておると言ったような、ものではなくてです。もう当り前の事として、それが尊ばれ、敬うていかれる。いわゆる年寄りに不都合、不行き届きのあっちゃあならんぞと、例えば子供、孫達が年寄りにろくそな言葉を使いよるならです。なんて言いよるのか、と親が怒る位の家庭でなからねばならんと言う事。おじいちゃん、おばあちゃんを何て思うとるのか、と言う位のものが、躾の中にもなからなければならない。
孫達に到る迄が年寄りを大事にしておると言う家庭ほど、私は、言わば見よいもんはないと思う。言わば信心の家庭。そこに信心のある家庭と、ない家庭の違いをです。はっきり出来る位のおかげを、信心させて頂く者は特に心掛けて努めなければならない。そういうところにです。例えば文男さんが、昨日申しましたようにです。御用に出て来ると言うても、務めて出て来ておる。それでも神様は、務めておかげを下さろうけれども。それがそうしなければおられないものと言う事になってくると、神様も、もうやらなければおられないものとして下さるおかげを、頂く為に信心をいよいよ根本的に、内容的に深めていかなければならないと思います。どうぞ。